平城宮(大内裏)は朱雀大路の北端に位置し、そこに朱雀門が設置された。平城宮は平城京造営当初から同じ位置に存在した。その中心建物である大極殿は740年の遷都の際に取り壊され、後に旧位置の東側に再建された。朱雀大路の南端には羅城門があり、九条大路の南辺には京を取り囲む羅城があった。ただし、実際には羅城は羅城門に接続するごく一部しか築かれなかったのではないかとする説が有力である。
寺院建築は非常に多い。京内寺院の主要なものは、大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺(以上を四大寺と称した)で、これらは藤原京から遷都に際して順次移転されたものである。東大寺は東京極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって752年に創建、西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年(765年)に創建された。これらに法隆寺を加えて七大寺(南都七大寺)と称する。
2006年3月10日、大和郡山市教育委員会らが、平城京が十条大路まで作られていたのは確実であると発表した。道路の遺構に加え、羅城(城壁)跡の一部が発見されたことによる。この羅城は中国の都城のような土壁ではなく、簡単な瓦葺きの板塀ではないかとみられている。何面だけは高い築地塀があった。
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発掘・調査 [編集]
北浦定政が、自力で平城京の推定地を調査し、水田の畦や道路に街の痕跡が残ることを見つけ、1852年(嘉永5)『平城宮大内裏跡坪割之図』にまとめた。さらに関野貞は、大極殿の基壇を見つけ、平城宮の復元研究を深めて、その成果を『平城宮及大内裏考』として1907年(明治40)に発表した。 棚田嘉十朗によって「奈良大極殿保存会」が設立され、1924年から平城宮の発掘調査が行われた。 1959年以降は、奈良国立文化財研究所が発掘を継続しており、2004年現在では、約30%が発掘されている。
大内裏に相当する辺りは現在の近鉄奈良線大和西大寺駅と新大宮駅の中間にあり、1922年には史跡に指定、1952年には特別史跡(平城宮跡(へいじょうきゅうせき))として保存されている。また朱雀大路の一部(二条〜三条あたり)が1984年に史跡に指定されている。
その他 [編集]
遷都の年号の語呂合わせは「710(南都)きれいな平城京」、もしくは「710(南都)大きな平城京」。
平城京はシルクロードの終着点であったことも関係し、非常に国際都市であった。それ故に京内には日本人だけではなく唐や新羅などから遠くはインド周辺の人々までみられたという。
桓武天皇が、平城京から長岡京へ遷都を決めた理由の一つに、平城京の地理的条件と用水インフラへ不便さにあった。平城京は大きな川から離れている為、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難であった。都には小さな川は流れているが、人口10万人を抱えていた当時、常に水が不足していた。生活排水や排泄物は、道路の脇に作られた溝に捨てられ、川からの水で流される仕組みになっていた。しかし、水がほとんど流れない為に汚物が溜まり、衛生状態は限界に達していた。